理由は不明だけれど。
2017.02.25 (22:13) 日常comment(0)
 今、国立大学の二次試験をやっているらしいね。
 私は推薦組なので関係ないんだけど、あれは、結構なプレッシャーだよねぇ。

 で、高校生のときのことを考えていて、ふと思い出したのだけど、高校の先生が学年集会で「賽の河原」の話をしてくれたんだよね。丁度、この時期、センター受けるとかその辺のタイミングだったと思うんだけど。
 その先生っていうのが、学年主任の英語の先生で、今調べると、「賽の河原」ってそんなに良い意味でもないんだけど、なんでか頭に残っているので、きっとなにか私にも感じるところがあったんだろうな。
 石を積み上げては崩されるということに、意味はないと考えることもできるけれど、積み上げるということに意味があるんだよ、とか、そんな感じのお言葉だったのかもしれない。肝心の、先生のメッセージは忘れちゃってるなぁ。このポンコツの頭め。

 そうそう、その学年主任の先生には、センターが終わった後、推薦の試験を受ける前に偶然廊下で会って一瞬話をしたことがあって、交わした内容としては
「センターどうやった?」
「イマイチです」
「推薦はどうするんや」
「受けれないこともない点数なんで受けますけど」
「そうか、頑張りよ!」
みたいな、本当に一瞬の会話だったんだけれど、このときに、「あ、私この先生に認識してもらってるんだ」と妙に感動した記憶がある。私は、自己評価が低いわけじゃないんだけど、まぁ、「自分なんて大した人間じゃないですからね」と思っていて、だから、その学年主任の先生に、一個人として覚えられてる気がしていなかったんだよね。
 今思えば、英語の担任していたクラスの生徒で、進学クラスの生徒であったわけだから、一個人として認識しないなんてことはあるわけないだろと思うんだけど、その当時は本当に心底驚いたんだよなぁ。

 高校のときの後悔はいろいろあるな。もっといろいろ考えておけばよかったな。
 あー、でも、大学の時の方が、もっといろいろ後悔はあるなぁ。。。

 そういや、一こ前の記事で、友人が私のことを「人懐っこい」と評価した理由は、彼女と私が出会ったのが大学院に入ってからだったからだと思うよ。
 高校、大学と、私は人と人との繋がりを煩わしいものだとしか思っていなかったような気がする。一回、大学に入るときに、アドレスを教えずに携帯変えたことがあって、それは煩わしい関係を全部消去したかったからなんだよね。
 今でも時々、自分の持ち物全部捨てて遠いところに行きたくなるけど、連絡先を断絶したいとは思わなくなったから、人間としてはまっとうになったんだろうなぁ。
 私の中にはいろんな私がいるけれど、最近の主人格はマイルドで温厚であるようだ。

 ここまでの話とはまるで関係ないけれど、「人は生きているだけで素晴らしい」というのは幻想だと思っているんだけど、みんな本当にそうだって思ってる??
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